
江戸時代の年貢制度において、「四公六民」と「五公五民」は農民から領主への年貢率を表す重要な概念です。今日では現代日本の税負担率とも比較されるようになりましたが、歴史的事実に基づいて、どちらの制度がより優れていたのかを多角的に検討します。
四公六民と五公五民の基本概念
「四公六民」とは、農民が収穫した米の40%を年貢として領主に納め、残りの60%を農民の取り分とする制度です3。一方、「五公五民」は収穫の50%を年貢として納め、残りの50%を農民が取得するという制度を指します7。これらの制度は、江戸時代における農民と領主間の資源分配の基本的枠組みでした。
「公」は政府や幕府など、政治を実際に行い民衆を支配する側を指し、「民」は農民たちのことを指します3。この比率は単に税率を示すだけでなく、当時の社会構造や権力関係を反映するものでもありました。


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歴史的変遷と背景
年貢率の時代的推移
江戸時代の初期は「四公六民」が主流であり、農民にとって比較的負担が軽い制度でした716。しかし、時代が進むにつれて、特に徳川吉宗による享保の改革(1716~36年)以降、「五公五民」へと引き上げられていきました78。
この変遷の背景には、幕府の財政状況の悪化や、より効率的な税収確保の必要性がありました。大石久敬の『地方凡例録』によると、享保年間までは四公六民で、以後は検見法の実施によって五公五民になったとされていますが、これについては確かではないともされています7。


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地域による差異
実際の年貢率は地域や土地の条件によって大きく異なっていました。例えば、岸和田藩では92カ村中31カ村が8割を超え、うち17カ村が9割を超える極めて高い年貢率が設定されていたとの記録があります5。
このような高率が設定されていた理由としては、実際の土地面積を狭く申告する「差し出し」や、検地帳に載らない「隠田(おんでん)」の存在が関係していました5。つまり、名目上の高い年貢率は、実質的な負担を正確に反映していない場合もあったのです。
農民生活への影響
生計の維持
「四公六民」と比較して「五公五民」は明らかに農民の負担が重かったと言えます。『豊年税書』によると、田畑1町(約1ヘクタール)を経営する5人家族の場合、四公六民の制度下でさえ年間1石5斗の不足が生じ、三公七民(3割が年貢、7割が農民の取り分)でかろうじて生活が成り立つとされていました7。
この資料からは、五公五民の制度下では農民の生活はさらに苦しいものになったことが推測されます。実際、徳川吉宗時代に五公五民へと引き上げられた結果、年貢の負担は農民に重くのしかかり、一揆も増加傾向となっていったことが記録されています16。


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連帯責任制度との関連
農民に課せられた重い負担を確実に徴収するため、幕府は「五人組」という連帯責任制度を設けました17。これは5~6戸の農民を1つのグループとし、誰かが年貢を逃れたり罪を犯した場合、グループ全体に罰を与えるというものでした。こうした制度は、特に重い年貢率の下で農民の逃散を防ぐために重要な役割を果たしていました。
領主側の視点
財政的効果
領主側から見れば、「五公五民」は「四公六民」よりも有利な制度でした。年貢率の10%の増加は、領主の収入を直接増加させるものであり、幕府や藩の財政基盤を強化しました。特に徳川吉宗の時代には、幕府の財政立て直しが大きな課題となっており、年貢率の引き上げはその対策の一環でした。
八代将軍吉宗は、財政問題に取り組むために新田開発や定免法、有毛検見法などを採用しました4。有毛検見法は、村高に関係なく実際の出来高を把握しようというもので、農民にとっては過酷な徴税法でした。この時代の幕臣・神尾春央が「百姓と胡麻の油はしぼればしぼるほどとれる」と述べたことは有名ですが、これは農民がすでにある程度豊かになっていたことを前提としたものだったとも解釈されています4。
統治の安定性
しかし、年貢率の引き上げは農民の不満や一揆の増加につながり、長期的な統治の安定性を損なう可能性もありました。実際、五公五民が普及した享保から天明年間には、大飢饉も重なり、村役人や富農の屋敷を破壊するような「百姓一揆」が増加しました8。
現代的視点からの評価
国民負担率との比較
興味深いことに、2022年度の日本の国民負担率(税金や社会保険料の国民所得に占める割合)は47.5%と発表され、これが「五公五民」に近いとして話題になりました810。1970年に国民負担率の統計が始まった時点では24.3%だったものが、社会保障費の増加などにより、2013年度に40%を超え、現在は約50%に達しています8。最新の負担率は46.2%ですが、財政赤字を加味した潜在的負担率は2011年度から50%を超えた状態が続いています18。
この事実は、江戸時代の年貢率と現代の税負担を単純比較することの難しさを示す一方で、社会的負担の歴史的連続性を考える上で興味深い視点を提供します。
結論:四公六民と五公五民の優劣
「四公六民」と「五公五民」のどちらが優れていたかという問いに対しては、視点によって評価が分かれます。
農民の生活と社会の安定性の観点からは、「四公六民」の方が明らかに優れていたと言えるでしょう。農民により多くの余剰を残すことで、飢饉などの非常時にも対応できる余力を持たせ、不満や一揆の発生を抑制していました。
一方、領主の短期的な財政状況の観点からは、「五公五民」の方が優れていたと言えます。より多くの年貢を徴収することで、幕府や藩の財政基盤を強化することができました。
しかし、長期的・総合的な視点からは、持続可能な社会システムとして「四公六民」の方が優れていたと評価できるでしょう。過度な収奪は農民の生産意欲を削ぎ、逃散や一揆を引き起こし、結果として社会全体の安定と生産性を損なう可能性があったからです。
重要なのは、名目上の年貢率だけでなく、実際の運用や地域による差異、そして時代背景を含めた総合的な評価です。江戸時代の社会システムは、現代とは大きく異なる前提の上に成り立っており、単純な優劣の判断は難しいことも忘れてはなりません。
参考文献
本レポートは、提供された複数の資料を基に作成しています。特に34578101617の資料から、江戸時代の年貢制度に関する歴史的事実を参照しました。